【コラム】人生は砂時計

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砂時計をみなさんご存じでしょうか?砂時計は、メソポタミア文明や古代中国、古代ギリシアでも登場し、古くから使われている時間の測定器具です。中の砂はさらさらで均一である必要があり、ガラスの素材に使われる珪砂や、蹉跌、ジルコサンドなどが使われています。ちなみに現時点で世界一大きい砂時計は何と日本にあり、鳥取県の仁摩サンドミュージアムに置いてある1年を測ることのできる砂時計だそうです。何気なく、先日サウナに入った時に、私はこの砂時計に目がいきました。このサウナの砂時計は真っ黒なので蹉跌製でしょうか?大きさは、スターバックスのショートサイズの紙カップよりやや小さめ。ガラスは暑くなっていて危ないなあと思いつつも、なんとか触れる木の部分を手にして、なんとなくひっくり返して、砂が下に落ちるさまを眺めていました。下のガラス球の中には1粒1粒(よりも若干物理的には多いのでしょうが)砂が積み重なっていきます。最初、溜まっていくさまは変化も大きく面白いのですが、すぐに溜まっていく速度が遅く見えます。ガラス球の水平軸に対する円の面積がどんどん大きくなっていくのでしょうがないのですが、したに早く落ちないかなと思いました。ぼーっと汗を流していてふと気が付くと、砂がガラス球の残すところ3分の1まで到達していました。すると今度はどんどん加速が大きくなっているように見えます。逆に上の砂は最初、いったいいつなくなるのかと思うぐらいたっぷりあるのですが、最後のほうでは当然わずか。それを見ていてふと思いました。上半分は自分に与えられた一生の時間に捉えることができると。いつまでもあるように見えるけれど、有限。途中何度か、前より減っている実感はあるけれど、まだまだあると残りの量に目が行ってしまう。半分を過ぎると、さすがに残りの少なさが気になるものの、ずっと見ているとそれが気にならなくなってしまう。そうしているうちにどんどん減っていってしまう。その時間を使って何が生まれるかというと、下のガラス球にたまったもの。つまり行動の結果(実績)だと思う。結果もスタートしていきなり見えたりはしない。むしろほとんど気にならないレベルだ。でも続けることさえすれば、1粒1粒は実に小さく、だれもが気にしないレベルでも、それは時間とともにどんどん積もり積もっていく。ふっと気づいたときにはもう半分がガラス球に溜まっている。とにかく1粒を馬鹿にしないこと。というよりそんなことさえ意識せず、ご飯を食べるように、歯磨きをするように、当たり前にこなし続けることこそが、気づいたときには他人が追い付けられないぐらいの差になっている。なーんてことを考えているうちに、砂時計は上が空になりました。俺の人生もこうやって終わるのかあと思いながら、サウナを出ました。ちなみにこの砂時計は15分測定用でした。たぶん。

※後日、時間が経つことは、加齢とともに早くなることを聞かされる。。。砂時計のイメージ、ぴったりね!


たまにはこんな本を読んでみるのもおすすめ。
今行動できない人は、時間がないことを本気で自覚することで動けますよ。きっと。


エリック・フォッファー
失明、突然の視力回復、両親の死による天涯孤独、自殺未遂、肉体労働者、肉体労働で実感する生きる喜び、図書館に通う日々、そして哲学者となったフォッファー。淡々と生きるということのすばらしさが描かれた、フォッファーの実話です。個人的に好きです。


インド新興宗教の後継ぎとして生まれ、1900年初頭に世界各国を巡礼の旅で回るも、跡を継ぐとともに教団を解散し、瞑想とシンプルライフに没頭したクリシュナムルティ。

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