目次
- イントロダクション
- 今日のテーマ
- それぞれについての解説
- 再度ポイントのまとめ
- カウンセリングの現場では・・・
- 逆説的考察
- 映画で考える心理学
- エンディング
今日のテーマ
- 心配について考えてみましょう。
- 心配と不安の違いに気づくことができます
それぞれについての解説
- 心配
訓読みすると「こころくばり」で対象を気にかけること。ですが、「こころくばり」というときと、「心配する」の間には大きな違いがあると我々は感じます。それは「こころくばり」には、こころの余裕が気にかけるこちら側にあり、失敗に対する想定が腹の底でできているからだと思います。たとえば、ハイハイするようになった赤ちゃんが、部屋の中を徘徊するようになっても、クッションマットを敷くとか、策を設けるとか、危険だと思うものを部屋から除外するなど大けがしないような対策が完了した際、「やることはやった、あとは起こっても対応するほかしょうがない。」と腹の底で割り切っていれば、安心して赤ちゃんに「こころをくばり」ができますが、他にこういうことをやるのではないか?というように不安が次々と湧いてくるようですと、赤ちゃんに対して「こころくばり」はできません。なので「こころをくばる」といった際は、すでに(無意識レベルでの)覚悟が決まっていないと、できないのです。これに対して「心配」というと、このような覚悟が腹からは決まらず、「不安」とセットになった状態といえます。いつまでも子供のハイハイを気にするお母さんです。こころくばりはするのだけれども、覚悟が足りない結果、不安があり、不安がゆえにこころを配っている。それが心配だと捉えています。
心配する
英語のworryの語源
もともと「窒息させる」という意味で、その後オオカミなどがのどにかみついて獲物を殺す様を表すようになり、徐々に「相手を攻撃する」「悩ます」という意味をも持つようになった。出典:アルク英辞郎
自分ののどのあたりの筋肉を硬直させるようなできごとをWorryというのでしょう。日本語とニュアンスが少し違いますね。
心配で夜も眠れません
不安で夜も眠れません
彼氏が自分を裏切っていないか心配です。
彼氏が自分を裏切っていないか不安です。
たくわえが少なく、老後が心配です。
たくわえが少なく、老後が不安です。
試験に受かるかどうか心配です。
試験に受かるかどうか不安です。
息子が勉強をしなくて、彼の将来が心配です。
息子が勉強をしなくて、彼の将来が不安です。
なんとなく、両者の違いを感じることができましたでしょうか?
心を配るというぐらいですから、対象がよりはっきりしているのが、心配
それに対して不安は対象が心配にくらべ、より漠然としています。
老後が心配というと、老後そのものを指していますが、
老後が不安とというと、老後になったときに漠然とした恐れを感じているように聞こえます。
彼氏が・・・心配です。というと彼に対しての恐れを指していますが、
彼氏が・・・不安です。というと、その結果湧き起こる状態について自身の中に起こるもののおそれを指しています。
微妙な違いですが、囚われている対象が若干違うわけです。
執着している対象が違うのは大きな問題か?
相手が自分を操作している。相手に自分のコントロール権を渡してしまっている状態。
相手がどうするかによって、自分の心が大きく動く状態を自分にたいして許している状態。
自分の不安の原因が相手にあるかのように思い込んでいる状態。
本当は自身の心底にある不安や恐怖が、相手(あるいは対象)によって湧き起こることを自らが選択しているだけなのですが、相手(あるいは対象)に原因があると思って(あるいは感じて)いるわけです。
これに対して不安は自分の中で湧き起こっているということを素直に感じている状態です。
結局同じ不安なのですが、心配は自分の不安が隠され、相手に起因しているようにとらえている状態といえます。
再度ポイントのまとめ
- 心配とこころくばりは違う
- 心配と不安の違いは囚われている対象の違い
カウンセリングの現場では
こういったわずかな差ですが、なぜAという言葉でなくBを使うのか?この差に気が付くことが、その人に潜む問題やその人の無意識の構造に気付く上で重要なキーとなります。人を上手にアドバイスできる人というのは、こういった差異に(無意識レベルかもしれないが)気づけるといえます。そういう差異をカウンセラーとして、だいたい暗に指摘する(本人の意識にのぼらないように)ことによって、気づきを促していきます。心配が自分の問題とわかれば、解決は近いです。
逆張りを考える
心配のいい点?ひとつは心配の強度を強めてみると、あれもこれも心配だらけになり、あるいみどうでもいいレベルまで一気に行けることがあります。どうでもよくなるというもの一つの覚悟が決まった状態だと思います。起こることは起こるおこらないことは起こらない。起こったことにはしょうがないから対応する。そしてこれ以上もう考えない。いつも極端はいけないことだと言っていますが、いけないということは極端までいったから腹でわかるという事実もあります。心配でしょうがない。どうにもこうにも消えてくれないというのであれば、やりすぎというぐらい、今のでは全然足りないと怒られるぐらい積極的に心配してみましょう。勝手に中庸に行こうという働きにスイッチが入ります。ホント人間は不思議です。。。
映画で考える心理学
三里塚を生きる
三里塚とは成田空港建設の際に、強制収用され消えてしまった集落。映画はドキュメンタリーで、この強制収用と戦った人たちの当時と、今を追っかけるというもの。この映画を見ていると、1970年ごろまでは、農地や里山といった土地は、生存そのもののために存在し、売買できないものであったのがわかる。農地がなくなって他の土地を一から耕すのは困難だし、電気や水道がなくても、薪を拾える里山があり、湧き水や川が存在した。魚などは近くの人たちの手伝いなどと交換で入手していた。つまり資本主義とはまったく別の世界だったわけだ。それが40年以上もたった今では、すべてが資本主義に組み込まれ売買できるようになってしまった。結果お金で代替の生活が用意されるようになってしまい、もう運動を続ける人はほとんどいなくなった。何でも金銭取引の対象となった結果、個人同士の精神のつながりや存在意義が破壊されてしまった。なぜそこにいるのか、だれのために生きているのか?お金と引き換えて失うものは、成田だけでなく、日本人にとっては大きい。