GWまっさかりだ。天気もいいし気温もそこそこなので、みな出かけたくなるのだろう。もっとも私は人だかりが大嫌い。人の移動する時期に移動したくないし、でかけたくもない。でも家族はそうはいかない。サラリーマンの娘であった妻は、土日は休みだと思いこんでいる。それは政府が労働者のためにきめたことであって、経営者のためではないのだが、そんなこと微塵も配慮してはくれない。
目次
- イントロダクション
- 今日のテーマ
- それぞれについての解説
- 再度ポイントのまとめ
- カウンセリングの現場では・・・
- 逆説的考察
- 映画で考える心理学
- エンディング
今日のテーマ
今日のテーマは「甘え」です。
- 個の概念が日本人には欠落している
- 西洋の個の概念にはキリスト教がある
- キリスト教の理解なく、資本主義だけ受け入れた
それぞれについての解説
- 日本人特有の甘え
- 西洋人のいう個
- 日本人の個
土井健郎は「ウチ」と「ソト」という言葉で表現した。
日本人は「ウチ」と「ソト」と、他人を自動的にすぐ、まずとらえる。
そして、ソトととらえた人のうち関心関係がある人達には「遠慮」をする。
ウチととらえた人には、「遠慮」をしない。
ウチの人は仲間であり、なんでも話せて頼れる人ととらえる。
そこには、自分と他人という線引きが非常に曖昧であり、薄い。
この「ウチ」にいる他人に対して、義務を感じるし、感情がある程度連動する。
だから、日本人は自分自身というものを持ちにくい。
河合隼雄は、中空構造といった。
お爺さん、お母さん、息子の三人で構成される社会であり、中心に絶対的な存在としての父が欠落している。
常にどこが中心か、というものは存在せず、それが正しいか、まちがっているか、コミュニティにあっているかどうかでなく、
外部からの新参者も存在することができる。そして全体とのバランスの中で、必要であれば拡大し、不必要であれば消えていく構造になっているという。
ここでも、日本が(日本人の無意識が)自分がどうのこうのという社会ではなく、受け入れられて存在できるかどうかは全体のバランスにかかっており、自分が決めているわけでもなければ、誰かが決めているわけでもないという構造をしている。
中根千枝は
場だといった。
場の共有でウチができる。
能力でなく、物理的に場にいることでウチの参加資格と義務が発生する。
場は能力でないから、代わりに年功的な経験が序列をつくる。
いずれにしても個が機能するのでなく、場という全体が機能してこの役割が決まる。
この環境で西洋人のいう個が理解できるのだろうか?
キリスト教世界では、神様と契約し、神がいう正しい行動を行うかどうかは、個が行うもので、社会でも場でもない。
西洋では家族と神がウチにいて、あとはすべてソトである。
西洋人の思考は、絶対的中心(自分や神様)があり、それは父性的なものであり、独善的である。
回りはそれを取り巻くものにすぎず、全体さえ、その中心が計算して存在するという見方(世界観)をしている。
だから、個はゆるぎないものであるし、民主主義が正しいということになる。(神が作ったものは正しい。
それぞれが神がいうことを聞こうとする行為は正しいし、神との契約は平等で公平)
これは、まったく自由ということでなく、あくまで神様のためであり、そのための義務も制限もあるし、
社会のためにやるべきことが存在する。
まず自分と神様がありきであり、孤独な自分には神様が存在し、かつ迷いには聖書という教科書が存在する。
仲間がいるのが基本なので、それなしで個が存在せよといわれても当惑する。
西洋の理念としての「個」が輸入されたが、それがキリスト教的な無意識とセットでは輸入されなかった。
結果、形だけの自由となり、そこに圧倒的かつ絶望的な孤独がセットになっているのに気付かなかった。
核家族化があっという間に進み、「ウチ」の集まりで構成された経済から、「個」の集まりで構成される資本主義が導入されたけど、
個の本当の意味がわからないまま、社会や経済から置いてきぼりになった人を大量に生み出した。
再度ポイントのまとめ
- 個の概念が日本人には欠落している
- 西洋の個の概念にはキリスト教がある
- キリスト教の理解なく、資本主義だけ受け入れた
カウンセリングの現場では
カウンセリングの場でこの知識を直接的に用いることはありません。ですが、私のところに来る方のなかで、もっと自分について知りたい!真に自由になりたい!という人もいて、そういった方とのセッションや勉強会などでこういったことを話したりします。結局西洋人同様に神がないと生きることは大変なのか?という議論もありますが、現在キリストの世界では、キリスト教で説明できない点や矛盾を感じ、仏教に傾倒する人が実際は増加しています。結局本質に行かないと、解決できない現れでたと思います。このような哲学的な話になることもありますが、私のセッションではなるべくオカルトにならないように意識しています。(この話になると「神」「運命」「カルマ」「スピリチュアル」って言葉を使ってオカルト的になる人が多いので、そういったいい加減なことを言う人とは線引きしています)
逆張りを考える
結局日本人って、どんな小さくてもコミュニティを持ち、所属することにより、「位置と役割」を見出し、精神的バランスを保っていたのかもしれません。江戸時代、江戸は世界有数の大都市で人口が100万人ぐらい。(当時のロンドンやパリはそこまで人口はいなかった)したが、警察組織が100人にも満たない小さな組織であったのに、殺人事件は年に10件もなかったそうです。衛生面でもすぐれ、すでにゴミの収集やリサイクルの仕組み、上下水道の敷設、が存在していました。プライベートという面での自由度は低かったでしょうし、コミュニティのための義務も多かったと思いますが、孤独を生み出しにくい構造であったと思います。最近はシェアハウスも増加しているし、むしろ若い人はプライベートよりコミュニティを求めていることから、時代は逆転し始めたのでしょう。
映画で考える心理学
フォックスキャッチャーを見た。
大金持ちのアメリカ経済のエスタブリッシュメントであるデュポンの御曹司が実際に起こした殺人事件が題材。とにかくお金に困らない資産家の主人公が、お金で人との触れ合いを結果として買っている。肝心な母親との関係も満たされておらず、人と魂レベルで触れ合うことができず、自分の生きている躍動感も見いだせない苦しみを見ることができます。お金と権威がかえって、他人との魂の交流を退けてしまう皮肉があるよな。最後までお母さんの承認を求めて生きる苦しみも。最後まで苦しさの残る映画だった。
出だしの続き。。。
いやいやの気持ちを抑えて、近くの町まで出かけてみると、なんとクラウトビール工場付きの飲み屋を商店街に発見。これが安くてうまい!通常1000円するクラフトビールがここでは、このクオリティで500円ぐらい。安いのは290円(税込)。こんなビールが普及したら、ナショナルブランドの意味がなくなるなあ、と思いながら今後の経済構造の変化に思いを馳せていました。それにしても素敵な店が登場したものだ。あー、頼むから馬鹿なTVの取材がこないでくれ!っと「場」から醸し出される「ウチ」を意識し、「ソト」に敵対するのでありました。あー俺って日本人!