IME(マイクロソフト社の漢字変換ソフト)は「死んだ」っていう漢字変換もできやしない。俺のパソコンの設定に問題があるのか?ゲイツ!
目次
- イントロダクション
- 今日のトピック。実践で何が得られるのか?
- 客観的と相対的の違い(相対的に物事を見よう)の解説
- 再度ポイントのまとめ
- カウンセリングの現場では・・・
- 逆説的考察
- エンディング
何が得られるのか?
- 客観的は幻想だということがわかります
- 相手を思いやる気持ちがもっと湧いてきます
- 場合によっては相手との距離が深まるかも
- いろんな「私」があることに気付くかも
- いろんな見え方がわかると、感情のブレが少なくなります
あなたの作り出した客観というメガネで見た、相手からの「私」でなく、
相手の立ち位置と、それのせいで怒った感情から、「私」を見てみよう。
それぞれについての解説
- 客観的とは
- 相対的とは
- 相対的視点を取り入れると・・・
「客観的」とは極めて思考的、つまり感情や身体感覚というものを無視し、知性と情報だけで、その事象を捉えたものを通常指します。しかし通常「客観的」というと、まず自分の無意識が決めた結果(こいつはとっちめてやる)がありきです。結論ありきで情報を探したり、見ます。本人の気づかないところで、とっちめてやるための相手の欠陥を探しているのです。そして、それが独りよがりだといわれず、常識的、一般的といわれるレベルになる論理性を高めます。もしくは「主観」をたくさんあつめて、最大公約数を「客観的」といっていたりします。「客観的」という視点は、哲学者フッサールがすでに幻想であることを証明しています。個人は感情を含めた身体感覚や物理的な身体の制約なしにものを見られませんし、たとえたくさんの人が集まっても同じ20代であれば、20代の、東京であれば東京の、男性であれば男性の制約があります。いろんなところのいろんな人が集まっても今度は人間としての制約があるわけです。
動物も種族が違うだけで(基本DNAが違うだけで)こんなにも見えるという意味が違う!
ちなみに語源にもあたってみると・・・
客=祈りの結果神様が言えに降りてきた様
観=鳥をつかった占いの様子から、目に見えないものをじっくり見ようとするさま
英語=objective 語源=モノ→物と自分自身の関係性を見る
主観的 自分の目で見たまま。自分の感情や身体感覚も含め、見たまま
自分ではなく、自分の外から、感情や身体感覚を省いたうえで、第三者共通の視点を見出そうとするもの。究極の客観は自分以外の絶対的視点といえる。
「相対的」に見る場合は極めて主観的、つまり感情や身体感覚を含めた知性や情報で、その事象を捉えたものです。その事象をみた人の数だけ、いろんな視点が存在します。主観的視点がたくさん集まったものと言えるでしょう。相手から見た私を相対的に見るのも、同じくその正確性は期待できませんが、相手の立場や置かれた環境から感じることを前提に自分を見たりするので、あるいみ人間的であり、であるが故に逆に精度の高さが期待できます。カウンセリングをするまでには私も頭でしか理解できていませんでしたが、相手のおかれた環境や前提とそれによってひき起ったであろうその人の心情をまったく見ていないことが実に多いのです。つまりみなさんよくやってしまう、相手を見るときは客観的に見てしまうというものです。事実や結果と、自分が信じる信条(本人はこれが一般的なものであると信じている)からだけでその人を見てしまうのです。そしてもう一つ気づいたのは、自分が相手からどう見えるのかという視点です。この場合大きく2つに分かれます。1つは客観的、もうひとつは主観的です。前者は、自分を見る視点も厳しい人、後者は自分を見る目が甘い人です。どちらも大きくかけているのは相手の置かれた立場と、それによっておこる心情です。その心情で見るのが、相対的というと私は解釈しています。ただし、関係の数だけ視点があるので、関係者が増えるほど、視点が増えますので、考えることも増えるのが欠点でしょうか。2人であれば、私から見たあなたとあなたから見た私の2つになります。3人になると、さらにAさんを見た私、Aさんから見た私、Bさんを見た私、Bさんから見た私、さらにはAさんから見たBさんと、Bさんから見たAさんと2のN乗組合せが増えていきますので。
ちなみに英語はrelative。この意味は関係性といった方がよく、どう見るかより、どうつながっているか、どの方向にどのようなエネルギーでつながっているのか、位置関係をしめしたものと言える。よく考えたら、周りの位置が決まらないと、実は自分の位置って決まりませんよね。って伝わらなかったときのために解説をするとこういうことです。自分がこの世でたった一人の存在であったなら、そのあなたの位置という意味が存在しません。位置という言葉さえ存在する必要がありません。「相手」という人がもう一人この世に誕生するとどうなるでしょうか?初めてあなたから見た「相手」、「相手」から見た自分が生まれ、同時にその距離、向き、エネルギー流れ、などが存在します。これがrelativeです。この相手との間にできた「線」は個性的で1本1本がユニークです。同じものはありません。相対とは、相手との間に存在する線の意味を捉えるものともいえるでしょう。
ちなみに、反対に「絶対的」は相手がどうこうは一切関係がありません。
相対的は自分の感情や身体感覚つまり体を切り離すことなく、いろんな事象と見ているもの。視点の数だけ感情や身体感覚、取り巻く環境があるのが、客観的とは異なる相違点といえます。物事をみるのに感情や身体感覚を切り離すということはあり得ないので、客観的に見ているといっているのは幻想。
相手をそして自分を見るときに必要なのは、実は客観でなく相対。まさに、感情や身体感覚を置いてきぼりにすることで苦しんでいるのが現代人だからです。この相対的視点を日常生活に取り入れると、相手を(人を)許せるようになります。それは自分も似たような状況であれば同じことをするであろうということを知ることができるからです。彼氏が自分をかまってくれないのは、仕事のプレッシャーと戦っているからで、自分もそのような状態になれば、相手にやさしい言葉をかけるこころの余裕が湧いてこないかもしれない。上司が自分につらくあたるのは、上司は部長からの数字のプレッシャーや子供が小さい奥さんからの不満や、最近買ったマンションのローンの支払、実家にのこしてきたというご両親の介護の問題などがあり、精神的に相当しんどいからかもしれない。逆にその状態で仕事をこなすというのは自分でできるか自信がない。尊敬にあたいする。そうやって部下からも私からも甘えられているのに頑張っている旦那が、少々子育てにかかわるのがおろそかになるのはしょうがないかもしれない。自分だったら果たしできるのか・・・。人から見られている自分がたくさんいることに気付くと、強みも弱みも360度の自分を把握できるようになります。そうすると特定の誹謗や中傷があっても、別の見方、そうはいってもこういう面もある。と柔軟にとられられるようになり、打たれ強くなり、ぶれにくい自分が出てきます。介護に帰ってこない息子を責める気持ちが強かったのが、彼がしょい込んでいる責任の重圧と、それに一生懸命耐え、家族や部下を支え、会社に貢献しているのを見ると、頑張っている息子に対して自分は依存心しかなかったことに気づき、自分も自分でやれる範囲のことを息子同様にしていたのだろうか?区役所に相談してできることもありそうだ。と気づけるようになります。
再度ポイントのまとめ
- 客観的
- 相対的
- 相対的視点を取り入れると
自分の感情や身体感覚を無理やり切り離してものごとを見ている状態
でもそんなことは人間には不可能
だから客観は幻想
相手の感情や身体感覚を考慮して自分や第三者、物事を見る状態
人の数だけある。
だから主観的の集合体のようなもの
人を許せるようになる
人から見られている自分がたくさんいることに気付く
いろんな自分を使い分ければ、実は自分がぶれなくなる
カウンセリングの現場では
自分の感情や状態を切り離して、それを椅子に坐らせて対話したりしますが、これは客観化しているのではなく、相対化しているといえます。いずれにしても、人間である以上、そして生きている以上、感情や身体感覚がない人はいません。これを無視してクライアントさんの気持ちはわかりませんし、クライアントさんを囲んでいる人間関係も、クライアントさんには見えてこないと思います。これが見えると、つらい時期がすぐあるものの、それを必ず乗り越えて明るく成る人が多い事実から、これは真であると思います。
逆張りを考える
客観が幻想だからって、その理想を追求しないと、現代科学は成り立ちません。心理学的に正しかったのかは別にして、デカルト述べたように、体と感情を区別したことは、その後の科学や医学の発展に大きく寄与したのは紛れもないことです。幻想だとわかっていてもその極限の理想を追求するところが人間らしさではないかなと思います。また、絶対的というのも、全面悪というものではありません。人間が生きる上でぶれない核は欲しいものです。ただそれも、世の中を相対的に理解したうえでやれば、何も見えずに絶対視するのとはわけが違います。
出だしの続き。。。
コンピューターがこの「相対」というのができるようになると、自動通訳や文字変換が飛躍的に進化を遂げるだろう。つまりその人の置かれている感情パターンや環境を把握するわけだ。それには何も公式を発見するのを待つまでもなく、恐らく膨大な検索パターン、メールの文章、位置や時刻情報などから見つかっていくのだと思うし、そういうデータをG社はとっているので、やろうとおもえば実現は可能だ。でもそれは実際気持ちが悪い。悪用される危険もあるし、人間がどんどん考えなくなるようになってしまう。昔のSF映画は、便利になった分だけ時間ができ、その時間を通して人間はより人間らしくなるといっていたと思うけど、実際の人間というは余った時間は持てあますだけ。このあたりはまた別に描きたいと思う。ところで、最近の映画の未来って暗いのばかりだけど、明るい未来映画が最後に作られたのっていつ?バックトゥーザフューチャー以降知らないんだけど(笑)
よく考えたら、バックトゥーザフューチャー2の未来って2015年。つまり今年だ!