怒りがテーマなので、単純に「12人の怒れる男」をテーマになんか書こうと思ったけど、ちょうどみたセッションという映画が、印象的なのでその話をしたい。この映画、ジャズドラマーの成長過程を書いた映画だと勝手に思って鑑賞。なんてことはない、ホラー一歩手前のサイコサスペンスじゃん。アメリカ映画だからか、サイコで終わらなかったけど、スタンリー・キューブリックだったら、あのラストのシーンはカットして、完全なサイコサスペンスで終わらせ、完成させたかもなあ。と思ったりした。映画は、プロジャズドラマーを夢見る少年が、アメリカ一番の音楽大学で、そのカリスマバンドの指揮&教授にその腕前を見初められ、バンドに参加する話。教授のフレッチャーはとにかく教え方が滅茶苦茶。自分の思った演奏がされないと、顔は殴る、ドラムは投げる、これでもかというぐらいの罵声と相手をさげすんだ言葉を浴びせる。今はやりのモラルハラスメントってやつでしょうか?120分間ほどんどのシーンがコレ。はっきり言って叱っているのか怒っているのかよくわからんくなってきます。
目次
- イントロダクション
- 今日のトピック。実践で何が得られるのか?
- 怒りについて解説するよ
- 再度ポイントのまとめ
- カウンセリングの現場では・・・
- 逆説的考察
- エンディング
この状況を克服すると何が得られるのか?
- 怒りの構造が理解できます
- 怒りのエネルギーの正体がわかります
- 怒りの解消方法を知ることができます
- 怒りの良い面も知ることができます
怒りをコントロールして最小限に!あとはすっきりな時間を過ごしましょう。
それぞれについての解説
- 怒りって何?
- 怒るときにかざす正義は嘘。
- 怒りは相手に対する甘え
- 幼いころに満してもらえなかったことによる、許せないという衝動
- 自己重要感の欠如状態
- 怒りのエネルギー
- 解消方法
- きちんとその感情の存在を認めてあげる
- 深呼吸をする
- 運動する
- 場所を変える
- たまってしまった自分の怒りを発散する
- キリストもブッダも怒りはNG
- 怒りとは
- 怒りエネルギー
- 怒りの解消方法は
よく人は怒るときに、「相手のことを考えて」とか「道義的に考えて」とか「常識的に考えて」とかいいますが、実はそれは怒るための言い訳にすぎません。そういう人は、怒る前から起こった状態だったりするからです。たまたま今目の前に起こったことが、そのきっかけになったにすぎません。以前震災後に自動販売機を前にして、こんなのがあるから電気が足りなくなるんだ!と奥さんに向かって力説しているご老人を見かけたことがあります。この爺さん、別に電気不足を怒っているのではないです。おそらく、震災以前にそんなこと考えたこと、これっぽっちもないでしょう。夏に暑くて冷房ガンガンつかっていたかもしれません。別の理由で常に怒っている状態にあって、たまたま怒っていい社会的正義ができたから、怒りをあらわにしていただけでしょう。たいていの場合において、正義を元に怒る人は別に怒りの理由があります。というのも、こういう人というのは、正義が一貫していません。さきほどのおじいちゃんも電力不足について綿密な調査をしたわけではなく、テレビ情報の受け売りでしょう。(第一こういうことはメリット、デメリットが混在し、事実を知れば知るほど、立場によって意見も正義もかわるという事実に気づき、単純に正義を振りかざせなくなりますからね)。逆に一貫している人は、叱ったり、諭したりして、それを伝えます。
相手が時間通りにこなかった。相手がいうことを聞かなかった。自分が風邪をひいているのに、態度がそっけなかった。怒る理由は様々ですが、これらは、相手に対する期待が裏切られこと。そしてそれをゆるせないというエネルギーが沸騰した状態といえます。というのも、最初から、相手が時間通り来ると思っていなかったら、相手がいうことを100のうち1聞けばすごいという人物だと見たてていたら、相手も忙しいから、自分の風邪どうこうまで気を書ける精神的余裕もないだろうと見たてていたら、同じような怒りが果たしで湧いてきたでしょうか?怒りは、相手への期待が大きいほど、その思い通りにならなかったときに大きくなります。妻が大手家具屋に怒り心頭だったのも、その家具屋の家具が大好きで、そのブランドに傾倒していた分、いい加減な対応が許せなかったのだと思います。それはさておき、相手は何があっても時間通りに来ている人、どんなことでも俺のいうことは聞く人、自分の体を常にいたわりケアしてくれる人、なんていう過剰な期待は、相手に対して「それがあたりまえの状態」と、甘えているのだといえます。
それにしても、許せない気持ちそのものはどこから来ているのでしょうか?それはいつものごとく、幼少期にさかのぼります。幼少期にお母さんがだっこしてくれなかった、おっぱいをくれなかった、話をきいてくれなかった、やさしくしてくれなかった。というのが原因です。この時に大切に自分があつかわれなかったことに対する相手を許せない衝動、がよみがえっているのです。これは何も何年間も常にそうである必要はありません。脳みそをえぐるように記憶に刻まれたのであれば、たった1度でもなるのです。そして、脳みそえをえぐるような出来事というのは、あくまで当人にとってのことなので、それが客観的におぞましいか、悲惨かはどうでもいいのです。子育てを経験された方ならお判りでしょうが、親は親でできることを最大限にしているわけで、実に些細なことでそうなるというは心外ではあります。というもの常にだれでも起こりうることだからです。でも、一生背負うプログラムを埋め込まれた状態になってしまうのです。逆に大人になった我々から見ると、実に些細なことに、ずっと囚われるとも言い換えられます。
さきほどのお爺さんの例を続けます。もしこのお爺さんがそこそこ知れた作家さんで、それなりに注目され、収入もあり、好きなことをやって悠々自適に暮らしている方であったとしたら(実際そうだった可能性はありますが)、同じように自動販売機を見て怒りを表現していたでしょうか?恐らく満ち溢れた気持ちとその余裕から、問題点の指摘はあったとしても、怒りを表現するというのはなかったと思います。賢明なみなさんでも、あの直前、宝くじが1億あたっていたら、大好きな人が向うから好きだと言ってきたら、怒りをあらわにしなかった場面というのが実にたくさんあるのではないでしょうか?なんかしらの理由は付けますが、それはすべて怒るための理由付けをしているだけで、実は自分が満たされていないからなのです。イライラしている状態というのは、自己の重要感が欠落した状態なのです。自己の重要感とは、自分は尊敬されている(認知承認欲求)、自分は自分の力で生きている(自己存在感)が満たされている状態といえます。
筋肉に蓄積する
怒りは筋肉に蓄積します。たくさん怒り、かつそれを昇華できていない人の体はこわばり、かたまり、縮こまってしまいます。またそういったエネルギーは自己を攻撃するとも言われます。(胃が荒れたり、皮膚が荒れたり)。これは感情や衝動の大きさにもよりますので、感情の起伏が激しい人、豊かな人、純粋な人、感じやすい人は、この蓄積される怒りの量も多くなります。これらが体を攻撃するほか、自分の心を攻撃することもあります。それは鬱状態につながるといわれています。さらに一番困ったことに、怒りのエネルギーは消滅しません。後先考えずにぶちまけるか、きちんとかまってあげるか、いずれにせよ外に出すしかないのです。
無意識領域に蓄積された怒りのエネルギーを抑えるためのエネルギーを使う
無意識領域に蓄積された怒りのエネルギー、ただあるだけでも問題があるのに、さらなる問題は、これを抑えるためにエネルギーを消耗することにあります。何もしないでも疲れるのは、無意識エネルギーの暴走を、無意識が抑えるためにさらにエネルギーを使っているからです。暴走している怒りのエネルギーを「正」の方向に使っている人とは、元気や若さ美しさの度合いがまったく違ってきてしまいます。
まずは、怒っている自分をきちんと味わいましょう。
まちがっても、怒ってはいけない、怒る自分は許せない、怒ることは不利益 などと思うことで打ち消したりしてはいけません。先ほど書きましたが、無視しても、ないふりをしても、発生した怒りは消えません。そしていなくなったふりをした怒りのエネルギーは心身の敵になり、自分にいろいろ不利益をもたらします。イライラしたりとか、体を壊したり、こころを壊したりの遠因になります。かならずかまってあげないといけないのです。
そう思うことは間違いではないのですが、怒りの打消しのために用いてはいけません。怒っていけないとわかっているけど、今回は怒ってしまったなあ。。。怒る自分は許せないと思うけど、最終的にそうなればいいや、ゆっくりいこう。今回は、今怒った自分をまずは許してしまおう。怒ることは不利益なことだってわかっているけど、今回も怒ってしまったんだなあ。。。実に人間らしい人だなあ、私。。。のように。
深く鼻をつかって深呼吸しましょう。怒りのエネルギーはせいぜい30秒ぐらい。1分ももちません。その間に怒りとは別の副交感神経を稼働させ、怒りの発生を回避しましょう。丹田に息を入れ、気が相手にでているのをイメージするだけでも随分と違ってきます。
ジョギングなどの運動をして解消もできます。20分以上の有酸素運動により、セレトニンを脳内に多く分泌することで落ち着いた状態を取り戻します。
(筋肉にたまってしまった怒りを発散するには相当の時間がかかります。発生してからかなりの時間がたっているものについては、もっと言えます)
とにかく、全身疲れ切る必要がありますので、体に自信のある人は、水泳やテニスなどの全身運動をお勧めします。ない人は、演劇で怒りのパートを演じたり、野口整体のいう活元などという方法もあります。いずれも体によるたまった感情の発散が、蓄積した怒りを減少させます。
思考や感情をつくっているのは環境です。
ですから、今いる場所を移動することで、怒りの感情も変化します。今話をしている相手を変えることで、怒りの感情も変化します。今とっているコミュニケーションの手段を変える(たとえば、Lineをやめて対面にする。対面をやめて手紙を書く)だけでも、怒りの感情は変わります。まずはその怒りの発生場所から一旦距離を置き、落ち着いた段階で再開するのは賢明なコミュニケーションといえます。ちなみに、甘いものや辛いもの食べたり、タバコを吸ったりは単なる別の刺激への置き換えにすぎません。
運動が面倒だという方、時間がないという方にお勧めなのが、とにかく怒りを爆発させるというやり方です。もちろん怒りが湧いたその場でというわけではなく、家に帰ってもまだふつふつと怒りが残っているようでしたら、自宅のトイレにこもって、怒りを叫ぶというものです。都会にお住まいだったり、同居人がいる人は周りが気になると思いますので、その場合はタオルを口に詰めて叫ぶといいでしょう。とにかく、力を振り絞って怒りを便器にぶちまけます。怒りのエネルギーは相当な体力をつかいますので、せいぜい継続しても10分程度。30分ももたないと思います。とにかくへとへとになるまで叫びましょう。ただし、やり方によってはのどを傷つける恐れがありますので、1回目は慎重に取り組んでください。終わったら、よだれもダラダラで、ぐったりした状態で便器を抱いている状態だと思います。もう限界と思うところまでやったら、しばらくそのままでいましょう。怒りの表現の後に、様々な感情がわいてくることがあります。こんな状態がとても悲しかったり、相手の理解がたりないこと、期待に応えてくれないことへの悲しみが湧いてくるかもしれません。こんなことぶちまけたけど、相手の言い分も確かだなあと感じるかもしれません。湧いてくる感情をじっくり味わいましょう。おわったら、便器の水を流しましょう。私の怒りの感情さようならーと言って(笑)。パートナーがいるかたであれば、その方に事情を説明して、その方に向かって怒りをぶつけるというのもあります。相手は自分に向けての怒りでないことや、あなたの苦しみがわかっていれば、前向きに協力してくれるでしょうし、ぶつけた怒りで同様することも基本ありません。
感情に振り回されて人生がめちゃくちゃにならないように。
というのは、東洋も西洋も同じ。
怒りはキリスト教でも、仏教でも、それに振り回されるのは最悪なことであると言ってます。
そのマネジメントの大切さを両者ともにうたっています。
再度ポイントのまとめ
相手に対する過剰な期待で甘え
幼少のころ、母親が期待に応えてくれなかったことを許せない衝動
自己重要感の欠如
一度発生すると消えない、体に蓄積する
自分の心身を傷つける
抑えるために無駄なエネルギーを使っている
怒りの存在を認め、かまう。
深呼吸をする
運動する
場所を変える
怒って発散する
ちなみに、2大宗教でも怒りは大問題
カウンセリングの現場では
怒りをマネジメントしたいという相談は少なくありません。自分も怒りのマネジメントは大問題でした。そして、怒りというのはその表現が、悲しみや苦しみと違い社会地位を確立していません。道徳的な怒りの意味だけが浸透してしまっていて、その本質の理解が社会にないからだと思います。ですが、怒りは人間の根本の衝動です。この矛盾がゆえに苦しんでいる人が多いのです。そして、気になるのは、実は怒っている自分に思いのほか気づいていないケースが多いということです。怒っているのは認識されていても、ここへくるまでに、それが10ぐらいのプロセスや人格などから成り立っていることまでは気が付かないようです。カウンセリングではクライアントの微細な変化やプロセスを見つめることもお手伝いします(正確に観察できる能力が身に付くだけで怒りにふりまわされることが劇的に少なくなります)。その他、自己重要感を高めるワークをしたり、計画を一緒につくり、具体的な怒りのマネジメントに取り組んでいただきます。
逆張りを考える
怒りも、不安や恐怖と同じで、正しく使う方法があるかもと考える。
現に自分は怒ると、クリエイティブでなく、楽しくない部類に入る仕事や作業に取り組むことが多い。トイレ掃除や風呂掃除は私の仕事なのだけど、普段やる気がしないこの水回りの掃除は、怒りに燃えているときが一番はかどる。汚れをべっぴんさんでしっかりとって、さらに排水管をクエン酸+重層でぬめりやにおいをとり、最後にもう一度水洗いをしてピカピカにすると、怒りもよごれも水と一緒にながれてすっきりする。習い事をするときに、お師匠さんに「あ、あんたはすぐやめると思うわ」と言われて、むかっと来たと同時に「絶対に見返してやる!」という気持ちに火が付き、今では5年目。でもこのとき、この言葉をもらえなかったら、途中で飽きて辞めていたと思うから、お師匠さんがいったことは正しかった。怒りは正か悪かではなく、やはりその特性をきちんと理解して、あとは方向さえきちんと導けば、使いようがあるってことだと、今では理解している。
出だしの続き。。。
この映画のフレーミングを考えると、①サイコ映画(芸術の高みに執着して、人間を人間としての扱い方がわからなくなった人の話)、②金八先生映画(人が成長するためには、厳しさにも、厳しさを重ね追い込むことで、それを乗り越え洗練された人物になっていく。(西洋の神話モデルがこれ。だいたい龍が出てきて、それを倒すための成長が書かれている)。が主流だと思うけど、心理学的に見ると、このフィッチャー教授がどれだけ自分の重要感が欠落しているかという、映画には一切でてこないところに主題があるように見える。つまり、幼少のころに才能がないとさげすまれ、そして今、アーチストとしての結果を出せておらず、大学教授にすぎないというように、自己を設定(という色眼鏡で見ている)ということだ。