【映画で考える心理学】グラン・トリノ

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最愛の人を失うこと、存在意義を失うこと

鋼鉄のように振る舞い、とっつきにくく見せている人ほど、実は深いレベルでの心の交流を求めています。主人公のウォルト・コワルフスキーは、銃をぶっ放そうとするし、罵詈雑郷は相手にとばすし、人種差別的で、自分の住んでいる地区に東洋人がたくさんすんでいることを快く思っていない。なくなった奥さんが慕っていた神父さんも邪見にする。そういった意味で、セント・オブ・ウーマンの主人公、フランクと同じ心理的な構造に見えます。2人の共通点の1つは、社会に対しては常に怒りのようなものを持っているところでしょう。社会はこうあるべきだという信念が強すぎ、それを変える柔軟性も持ち合わせていないため、社会と接点をうまく持てません。これはおそらく厳しい父に育てられ、大人とはこうあるべきであり、こう振る舞うべきというルールを強く教え込まれたからだと推測できます。ですが、ウォルトの場合フランクと違って、自殺するほど失望しているわけではなく、輝かしい過去の自分に浸っているというわけではありません。(フランクは自動車工場でずっと働いていた)。その心の隙間を埋めていたのが、恐らくウォルトの奥さんでしょう。彼女が彼に対して、それでいいとそのままの存在を認めていたことが作中から推測できます。しかし、その彼女を無くしてしまったことによる悲しみと、だれも他に自分を理解してくれないという怒り(お前なんかに俺がわかるわけがない)が、一層彼を殻に閉じこもらせ、結果ウォルトは孤独になってしまっています。彼女を失うことで、自己存在を肯定し、尊重感を高めてくれる人がいなくなってしまったのです。孤立していく負のサイクルに入ってしまい、どんどん他人との間に溝を作ってしまいます。

存在意義とは他人に必要とされること

再び主人公の心に火をともすきっかけとなったのは、彼が嫌う東洋人でした。ギャングからそそのかされて、ウォルトの愛車を盗もうとしたタオ。その彼がその謝罪と償いをウォルトに求めてきたことから家族との交流が始まります。彼らの家族をギャングから守ったりするうちに、タオを一人前の仕事ができる人物にしてくれと家族から頼まれます。ウォルトの下、タオはメキメキと自信をつけ、大きく成長していきます。ここで再び、ウォルトは自分が必要とされていること、実際に人のために役立っているということを実感します。自分がタオを助けているのではなく、タオのおかげで自分が助かっていることに気付いていきます。そして、ウォルトは再び精神的に満たされ、安堵な日々を送れるようになるわけです。このタオやその家族からウォルトに与えられた「彼の存在意義」は最終的には残り少ない自分の人生を犠牲にして、タオとその一家を守ろうとするウォルトのラストの行動にまでつながっていきます。人間にはどうしても、所属感と意義が生きていく限り必要だということがわかるでしょう。


予告編ですが、ここに書いたことをのエッセンスを感じ取っていただけると思います。


クリント・イーストウッドのカッコよさが凝縮されていますね。

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