【映画で考える心理学】ファイトクラブ

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ファイトクラブ
ファイトクラブは1999年に公開されたデビット・フィンチャー監督の作品です。デビット・フィンチャーといえば、セブンやベンジャミン・バトンの数奇な人生、ソーシャルネットワーク、ゴーンガールなど数々の名作を手掛ける巨匠です。

なぜ主人公の名前がないのか?

主人公は名前がありません。これはなにも「千と千尋の神隠し」のように名前を取られて思いだせないわけでは当然なく、映画全体がIつまり「私」と自分をいうナレーションで進んでいくからです。この「私」を演じているのは、エドワード・ノートンなのですが、映画のクレジットにもナレーター エドワード・ノートンと記されています。ですが名前がない映画は自我と関連があるのは、「千と千尋」とも共通していると思います。この映画では、石鹸商であり、のちにファイトクラブを一緒に設立するもう一人の主人公、タイラー・ダーデンが実は自分自身の隠された人格であったことが描かれています。ですので、彼と「私」が同一人物であることを作品構成上隠すために、「私」となっているという意図が隠されていると解釈できます。と同時に、実は、自分がなにものなのかというアイデンティティや生きている実感を消失しつつある自我や、めきめきと頭角をあらわしてくる自分の影としての人格(タイラー)に対して、自我の地位をゆずりつつあり、自分というものがはっきりしていないのであえて名前がなくなってしまっているのです。名前がなくなるというモチーフで自我の喪失や発見をテーマとしている作品って結構ありますよね。浦沢直樹のモンスターとか。

タイラーは自己のなんなのか?

言わずとしれた、「私」の影、シャドーの部分がタイラー(ブラッド・ピッド)です。(「私」もタイラーではあるので、混乱を避けるため演者の名前ブラッド・ピットと以降書きます)。私は、ブランド品で部屋をきちっと整理整頓する人。きちんとしたルールのなかで、きちんとした生き方をしている人。でも生きている実感を感じていない上に、不眠症まで抱える人として描かれています。ブラッド・ピットは「私」とは正反対で、荒っぽい正確ですが大胆で、ワイルドで好きなことを好きなようにして、ある意味エネルギッシュで生命力にあふれています。そして周りがどうのこうの関係なく、善悪までも関係ありません。こうやって見ると、ブラッド・ピットは、「私」と正反対の人格で、まさに「私」が欲している人格、こうやっていきたいのに、それができないと抑え込まれてた自分の人格といえます。

自助グループに通う意味は?

なぜ、死と直面している人たちとの交流会に行くようになるのでしょうか?これは、直接行く要因になった医者のアドバイス通り、死のリアリティが強調される世界に触れることによって、自分の生が感じられるからでしょうか?それもあるのかもしれませんが、それだけではないと思います。というのも、マーラーに自分自身を見透かされた気になったところで、この快感が終了するという描写や、それにより彼の中で怒りが湧いてくる描写がありますので、この「自助グループ」への参加というのは、深い魂レベルでの死を直面した人との心の交流と同時に、「私」の中に、その程度のことで満足している自分に対する嫌悪感が存在するというになります。一歩引いたところで、死にそうな人との交流を楽しんだり、その交流を利用したり、立場を利用したりしていると、「自助グループへの参加」を認識している自分がいて、周りの人は死ぬけど自分は死なないという優越感や、死にそうな人との心の交流ごっこを楽しんでいる自分が存在することが推測できるわけです。実際作中でも、自分の病状をつくりそれを演じることを楽しんでいる「私」が描かれています。

フェイクでもいいから、生きている実感を感じる場所を欲していた、逆にいうとそれぐらい日常生活で「死んでいた」ということです。

ファイトクラブの設立とタイラーとの疎遠は?

「私」とブラッド・ピットは殴り合いを通じて快感を覚え、それがファイトクラブ設立につながっていくわけですが、これはもともと、「私」とブラッド・ピットは違う人格の同一人物なのですから、自分で自分を殴りたくて殴ったのが始まりだと解釈できます。ではなぜ自分で自分を殴ることがおき、それが継続していったのでしょうか?それは、こんな自分なんて消えてしまえばいいという「私」のもつ「私」への怒りと、物理的に殴るということによるエネルギーの発散と快感や解放感(エネルギーが発散されると副交感神経が刺激される)、殴り殴られることで感じる痛みによる生命や自分の存在の確認(痛みは思考でなく生命反応)。その3つのあらわれではないでしょうか?

話しの後半は、ファイトクラブが大きな組織となり、しかもそれが全米の各地で誕生し、それがテロリスト集団になり、はたまた表社会の上層部まで食い込んでいきます。こちらは、
社会の構成員であるわれわれ一人ひとりの影の人格(シャドー)の部分が統合していき、集合的無意識のシャドーが構成されていく様子を描写すると同時に、我々が持つ意識の集合体である集合的意識に復讐していく様子が描かれていると思います。個人の自我と影の戦いが、社会においても同じ構造であることが描写されていると思います。

疎遠になるということは、人格の分離(統合性失調症)がすすんでいる状態といえます。
人格の崩壊が進行している様子が、社会にたいする破壊行動を象徴として、描かれていますね。


デヴィッド・フィンチャーの間違いなく傑作の1つですね。

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