【映画で考える心理学】マトリックス

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※これは著者独自の見解であり、映画製作関連者の公式見解とはまったく関係がありません。

みたくない現実を見るということがテーマ

我々は現実を自分の見たいように見ているだけです。視覚は解釈です。網膜がとらえたものを丸々そのままで見ているわけではありません。実際に結んでいる像は逆転していますし、右目と左目で見えているものは若干違っています。右目だけで鼻の右側を見たときと逆に左目だけで鼻の左側を見たときに、見えるものが違います。ですが、普段鼻は見えていません。また、興奮すると人は瞳孔が開いて大きくなりますが、見ているものの大きさが変わったことを我々は感じません。これは網膜ではそのような信号を受信しているのですが、実は脳がその信号を変換し、経験に基づいて都合よく解釈しているからなのです。逆に今まで盲目だった人が、近くは大きく、遠くは小さく見えることを理解できません。しばらくはなにがおこっているのかを理解できないといいます。視覚は解釈なのです。それに気付けないのは、意識ではなくそれを無意識にやっているからです。

ですから我々には見たくないものは見えないです。無意識がないものとして解釈をかけるからです。見えないからこの世に存在しないことになっている。フランスの哲学者であるフッサールは、こうしたことを突き詰めていき、客観というものは我々にはわからないことを証明しました。無意識が避けてしまったことにはなかなか気づきにくいわけです。無意識は自分の存在が危険となる思考を抑圧する働きがあります。その現実を受け入れることが精神的に耐えがたいからです。この映画はその精神的に耐えがたい事実を受けいるということがワンテーマになっています。

ユングはいいました。避けたことは後々に大きな問題となって帰ってくると。今抑圧してみないことにした問題は、一見なくなったように見えますが、じつは無意識の世界でくすぶっていて、将来それが自分部新に対して復讐してくるというものです。

現実を受け入れるのは死ぬほど大変

「年をとってからでは遅すぎる」(というようなセリフ)があったかと思います。見たくない現実は、年を取れば取るほど、自分を破壊しかねません。それは、それまでの努力や積み重ねた自信をも破壊するパワーがあるからです。とっくによその世界で完成していたり、研究が終わっているのに、それを知らずに一生懸命やった末、その事実を知ったように、残酷だからです。(テリー・ギリアムの「ゼロの未来」も黙々と仕事をやってきた主人公の仕事が最後の最後で全否定されますね)。

死を伴うほどの痛みがある雰囲気を察知するだけで、それには近寄りたくないのが人です。まして視覚までが無意識の支配下の解釈である以上、気づくのも難しいのです。

バーチャルの世界は、支配者であるコンピュータが作ったのに、その世界でなんでもできるのはなぜか?

勝手な見立てです(もしかしたら認知不協和かも(笑))が、コンピュータが支配しているのは、人間の基本的な衝動や欲求までなのかもしれません。怒れたり、泣けたり、笑えたりといった基本的な感情に関する要素だけだということです。意思の部分をモニタリングしていれば、誰もマトリックスから出ることはできないですし、コンピュータというのはシンプルな計算式を高速で繰り返すことで成り立っていますので、人間を支配する基本的な感情だけ支配しているというのはあながち外れていないと思います。そしてこれを意思の力で克服すれば、もともと仮想現実な世界なのだからなんでもできるということだと思います。できないのは、できないという思い込み(潜在意識レベルでのブレーキ)だからだと、モーフィスも何度も言っていますね。これは夢の中と同じだと思います。夢ですので空も飛べますが、本当の恐怖心があって飛べない夢も我々は見ます。潜在意識が心の底から飛べると思っている(とべるのは別の意味があるのですが)のと、そうでないのとは見る夢が違ってきます。

最後にネオが撃たれても、生き返れたのはなぜか?

映画ではトリニティの愛で生き返ったとして描かれていますが、どうなんでしょう?
精神世界で一回死んだ魂はどこにいったのでしょうか?
作中ではどうなっていたかが描かれていませんが、バーチャルリアリティの世界(精神世界)からも、現実世界からも存在が消え去った瞬間が存在します。ただ、そこから再び戻れたという体験をしたというのが大きなポイントで、自分の存在さえ、囚われるものではないのだという悟りが得られたのだと思います。だから、生き返ると、バーチャルリアリティの世界で一喜一憂しない彼が登場するのです。

船の名前がネブカドネザル号なのは?

ネブカドネザル2世は、古代アッシリアの皇帝で、今のイランあたりからトルコやイスラエル、エジプトにかけてを支配した。彼はエルサレムに侵攻した際、ユダヤ人達を人質として捉え、アッシリアに連れ去った。聖書の世界では信仰に対して堕落したがゆえに起こった惨事であると同時に、現実に怒っている問題を受け入れ、再び信仰に目覚めるための神からの困難の課題であったととらえられている。映画のテーマそのものがここにも反映されている。

裏切り者のサイファについて

恐らく彼はバーチャルの世界という現実に飽き飽きして、そこから逃げ出したかったのでしょう。逃げるために、現実世界に行ったら、そこはもっと地獄だった。もっと受け入れられない現実がまっていた。また逃げいたい。苦しみを環境のせいにし続ける人物として描かれています。ネブカドネザル号ではトリニティに興味を持ち、ステーキをエージェントスミスとの打ち合わせで楽しみ・・・と欲望をむさぼる姿も描かれています。欲望だけで動き、外部要因のせいになんでもする人、つまりどこにでもいる我々の中のキャラクターが描かれています。(他人事じゃないですよ、サイファも)


個人的には3部作見なくてもこの作品だけで十分だと思う。


フッサールに興味がある方は、こちらをおススメ!


キリスト教におけるバビロン囚人の文脈を読み取るにはこちらをどうぞ!

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