【映画で考える心理学】ルームメイト

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見方を変えると、自分の闇の部分が自分に復讐してくるという映画

【ストーリー】amazonより抜粋。
マンハッタンのアパートに住むワーキング・ウーマン、アリソンは恋人サムと別れた寂しさに耐えかねルームメイトを募集、シャイで野暮ったい娘ヘドラと共同生活を始めた。二人の生活は順調に進むかに見えた。ところが、アリソンがサムとヨリを戻した頃から、ヘドラの態度に異変が表れ始める。服装、髪型、すべてが自分と生き写しになっていくヘドラに怯えるアリソン。ヘドラは、アリソンになりすました姿でサムを殺害。遂に自分への愛を求めるヘドラと追いつめられたアリソンとの、死を賭けた闘いが始まった!大都会の日常に潜む恐怖をあぶりだす傑作サイコ・サスペンス!

この話はまだ日本にストーカーという言葉が登場する前に公開され、女性をストーカーする女性の話として知られていますが、あえて、このストーカーを自分の中に潜む影(シャドー)と見るのも面白いかもしれません。

自分なんてダメだという自己評価が低い状態で登場するシャドー

同棲していたのに外で女性と関係を持ったサムを追い出して別れ、自己尊重感が崩壊した状態で、ヘディ(シャドー)は登場します。私は○○であるという自我の意識が弱まり、私は一体何?という意識が浮かんできた状態で、自分の中にある元型が顔を出すのです。初めて会った気がしない、あった瞬間から意気投合ができたのは、ヘディがもう一人のアリーだったからかもしれません。男性のシャドーの場合、ファイトクラブのように、強く、魅力的で、高い問題解決力を持っている姿が多いですが、ヘディと同じく自我に対しても登場時点では真摯であり、自我の困難を助けてくれる頼もしい姿が描かれています。河合隼雄の「影の現象学」でも、一例として、あるつまらない学者のシャドーが登場しますが、その彼も、凡調な主人公の自我とはことなり、自由奔放な姿で最初登場し、主人公を助けようとする姿が描かれています。ロシア作家のゴゴーリの「鼻」は自分の鼻が突然高級官僚として町でさっそうと振る舞っている姿を目撃するという話ですが、この「鼻」主人公のシャドーでしょう。この作品ではシャドーは自我に対してフレンドリーな登場をしませんが、自身が揺らいでいるときに出てくる点では共通しています。

存在(Being)を認められることで、自己尊重感が高まっていく

ヘディ(シャドー)はアリーと最初良い関係を気づくことができます。このモチーフもファイトクラブと似ているかもしれませんね。ファイトクラブの場合は、自分のできなかったことができるし、躊躇しない姿がシャドーに描かれていますが、ヘディの場合は、自分を一段低く置くことで、相手(アリー)の自己尊重感の回復に役立つ心の支えとして、最初は位置づけられています。アリーはヘディと接するうちに自分自身に対しての自信を取り戻していき、とうとう元カレのサムとよりを戻すことを決めます。自分のシャドー(ヘディ)のおかげで、一旦、アリー自身の自我は救われたかのような状況にたどり着けます。ファイトクラブもシャドーのおかげで、主人公は馬鹿ないたずらや、リアルな殴り合いをし、それを通して失っていた生きている感覚を取り戻します。(このあたりのモチーフは「鼻」や「退屈な大学教授の話」には登場しないです。)

影の存在を脅かす存在の登場

逆に、このサムの再登場により、自己の存在意義を大きく失うことになったのがヘディ(シャドー)です。シャドーは自我をのっとることを本格的に始めます。アリーと同じ髪型にし、同じ髪の色にし、アリーを名乗って出歩くようになります。ついには、アリーの彼氏のベッドに忍び込み、サムと肉体関係を持ちます。これは、女性の影による自我の乗っ取りと言えますが、この場合影なのに自分を助けようとし、裏切られるという描写は面白いといえます。男性の影の場合は、影そのものの自我は、本人と違って自分の存在意義を最初から一貫して持っている場合が多く、むしろ拡大していく中で、自我が乗っ取られていきます。ファイトクラブでは、シャドーがファイトクラブを全国組織として展開し、その力を使って世界を転覆させるテロを行おうとすることにより、自我とはいままでの親密さはなくなり、コンタクトが取れなくなってしまいます。退屈な大学教授のシャドーも自我の存在をまったく無視して、知らない子ところでどんどん活躍していき、有名になっていきます。鼻は自分をののしり見下すまでの高級官僚になっています。シャドーというののが、自分の意思とはまったく無関係かつ感知しないところで、自我を消そうと画策しているのです。この映画では、ヘディは生身の普通の人であるため、アリーを消すための必死さやしたたかさが描かれて、シャドーのようには見えないのですが、構造はシャドーと同じように見えます。

影を殺すということ

アリーは最終的に自分を乗っ取ろうとするヘディを刺し殺します。自分の自我を消し去ろうとする過激な影は殺す以外に消す方法はないのでしょうか?ファイトクラブでも銃でぶっぱなしますしね。「千と千尋の神隠し」では湯婆婆やカオナシがおそらく、千尋のシャドーにあたると思われますが、千尋はどちらとも、相手への恐れをなくし、かつ相手にも敬意をはらってもらえる対等な関係になるということで影(シャドー)を手なずけています。西洋人のほうが、自我というものが強い分、押さえつけられている「シャドー」の力と、その表に出ようとする力がものすごく、自我が乗っ取られないためには、影の存在を消すぐらいの奮闘をしないと、乗り越えられないということかもしれません。


急にものすごく仲良くなるってやっぱり危険。


河合隼雄


ある日目覚めると、自分の鼻が自分より偉い地位の官僚になっている。。。これもシャドーや元型を理解するとわかりやすいですね。

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