【映画で考える心理学】ローマに消えた男

支持率低下で次回選挙で勝てない不安にさいなまれ、鬱を患っているイタリア最大野党の党首が、政治の世界から逃げ出し、困った彼の秘書は、数十年も交流がないという彼の双子の兄に替え玉になってもらうことに。逃げ出した方は、昔の彼女の家(でも旦那も子供もいる)に転がり込み、彼女との交流や、彼女の映画制作の仕事を小道具係として手伝っていくことで心を癒していく。一方の兄は、自由奔放に現状を楽しむ性格で、それをそのまま政治の世界に持ちだすことで、かえって聴衆や政治家たちの評判を上げ、次の選挙の勝利間違いないところまで党の支持率を持っていく。

この話にある、双子はよく映画でも用いられるモチーフで、この場合、十数年間にわたって交流がない双子ということで、心の世界でいう、自我(これが俺だ!ってやつ。それは思い込みもいいところで主役でもなんでもないのは、いままで述べてきた通り)と、自我によって表の世界に生きることから追い出されてしまった影の部分(ユングはこれをシャドーと呼び元型論の一つだとした)をよく表している作品だなと思います。そして、ある日その押さえつけてきたシャドーが自我に復讐をしてくるというのも、これまた創作でもなんでもなく、実際の無意識の構造を表しています。シャドーの欲望を完全になくすことはできませんし、抑えれば抑えるほど、出てこようとするからです。映画では真面目な弟というキャラが押さえつけてきた、ひょうきんでユーモアあって自由奔放でいいたいことをなんでも遠慮なく言う、そういった別の一面が兄として描かれていて、自我が弱まった際に、ポンっと表に出てきます。これなんかもそうで、自我が揺らぐとき、シャドーは登場しやすくなります。

そして、映画では、自我が退行し、過去に乗り越えなかった課題やわだかまりを、昔の彼女と時間を過ごすことや手を動かして生産したものを具体的に感じることで取り戻します。たぶん、政治家になる際に、彼女との恋はあきらめ、政治家になることで、具体的な仕事をしなくなったのでしょう。抽象的なことばかり言っていればおかしくなりますよね。ユングは自宅で家をつくったり、石を削るなどして、創作活動を通して自分らしさを得ていたらしいですから、手を動かすことは重要です。

退行することで、自分らしさを取り戻すと、作品の最後では、兄は消えていなくなってしまいます。
まるでシャドーとの統合がうまくいったかのように見えました。

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