【映画で考える心理学】千と千尋の神隠し

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※これは著者独自の見解であり、映画製作関連者の公式見解とはまったく関係がありません。

なぜ名前がなくなる話なのか?

この映画のメインテーマはずばり「自我」の再生です。名前とは自分がもっとも自分自身だと思っている部分の一つです。名前がなくなるということは自分が自分であるという部分がなくなるということを意味しています。フロイトの性発達課題をさらに発展させたエリクソンは自身のライフサイクル論の中で、死ぬまでの人間の精神的課題や発達を論じました。その中で彼は30歳以降の青年期において、自己を再定義するプロセスがあることを述べています。またアメリカの心理学者であるロビンソンは、40歳前後のアメリカ人100名を面談&追跡調査をし、この年齢前後の男性に自我が一旦瓦解して、再構築を迫られることを提唱しました。この映画はそうして、なくなってしまった自分自身の自我について再度定義するプロセスを描いた映画といえます。

なぜトンネル、お地蔵さん、川が最初と最後に登場するのか?

我々は誕生の直前、それまで居心地のよかった母親の羊水から、一気に暗くて閉塞感があって、自分をそとに押しやろうとする力の支配下に追いやられます。フロイトはこれは人生初めての具体的な苦しみの体験であり、不安の元型になっているといいました。いずれにしても、この経験がトンネルの中で我々が感じる何とも言えない閉塞感やそこから出たいという気持ちを掻き立てているのかもしれず、結果としてトンネルは、いままで居心地のよかった場所とは別の世界を結ぶ苦しいプロセスをイメージするものとなりました。川は河合隼雄の箱庭療法に頻繁に登場し、意識と無意識の世界を隔てるものとして描かれます。川をわたることで、無意識の世界に飛び込んでいる象徴として描かれているわけです。そして、お地蔵さんも同様に、我々が理解できる意識の世界と、我々が理解はできない無意識の領域を神の領域としてとらえ、その境界線を明らかにするものとして描かれています。いずれにしても、ここを通過することで、自我の世界から無意識の世界に入っていくことを象徴しているといえます。

なぜ両親は豚になってしまうのか?

女性の成長物語は神話や童話によく描かれています。女性の場合は母(あるいはそれに近い人)に精神的に、あるいは物理的に、追い出されたり、殺されたりします。これにより、今まで当たり前のようにあった生活が突然終わり、自分自身の力で生きていなければならないことを強要されます。ご両親は千尋にとって頼るべき存在です。それが豚になってしまいます。豚というのは貪欲さのシンボルでもあり、作中でも、無断で食べまくることによりその人間性を喪失してしまう両親が描かれています。親という皮をはがしたら、欲望だけだったという存在をしることで、彼女の親からの庇護は期待できないものになってしまい、突然自分の力で、今ある問題を解決しなければならなくなったわけです。

登場人物にはどんな意味があるのか?

この話のメインテーマは自我の再構築です。再構築にあたり、自己の中に存在する自我とは別の自分との統合が必要です。統合のためには、その存在を知るだけではなく、その存在と渡りをつけなければなりません。言い換えれば、無視も嫌いもせず、そのキャラクターの存在をはっきり認め受け入れなければならないわけです。この映画に登場するキャラクターは言ってみれば千尋の中に存在するもう一人の千尋たちであり、千尋が私は千尋と思っている自我により、表舞台で生きることをができなかったキャラとも言えます。ユングはこれを元型と名付けました。(元型については別のページで説明します)。各キャラクターが担当している元型や役目は以下の通りです。(分類は著者が勝手に行いました)。

ハク・・・

千尋の中に存在する男性性。厳格さ、決断力、孤高さ、勇気、厳しさ。フロイトのいうアニズム的な存在。

湯婆婆・・・

千尋の中に存在する、千尋の自我が受け入れることができず否定し続ける自分自身。作中では欲望深く狡猾なキャラが描かれているので、千尋自身のそうした部分といえる。シャドーともいう。

銭婆・・・

同じく千尋の中に存在する、千尋の自我が受け入れることができず否定し続ける自分自身でシャドー。シャドーには暗い面と明るい面があるため、双子として描かれているように思えます。また、一方ですべてを受け入れ、包み込んでくれる老賢母あるいは大母としてのイメージ(元型)も、線婆には見受けられます。

釜爺・・・

千尋の中に存在する、経験から来る賢さや落ち着き、安定感ややさしさの部分で、老賢父のイメージ(元型)。

坊・・・

千尋の中に存在する、子供性やあかちゃんっぽさ。甘えたい部分と自分勝手にやりたい部分。千尋は転校もあったり、甘えさせてくれない親にそだてられたようなので、(あくまで筆者が見た、両親の振る舞いからの解釈)こどもがしたくてもできなかったように見える。

リン・・・

千尋の中に存在する、今の自我が描けるこうなりたい、というよりこうでなければならないという自分。フロイトのいう超自我に相当し、自我に対してプレッシャーをかける。千尋にプレシャーをかけるキャラとしては作中描かれていないが、リンの振る舞いを見て、千尋はこうなるべきというようにとらえている部分が多い。作中でハクを助ける覚悟が決まった時点で、この生き方と決別し、その超自我のプレッシャーから自由になっている。生きるのに重要なのは覚悟であることを示唆している。

カオナシ・・・

千尋の中に存在する現状打破のためのエネルギー。皆がしてほしくないことを皆ができない愉快な方法でやり遂げ、周りをかき乱す存在。結果として行き詰まった現状や秩序を破壊し、問題を解決してしまうパワーと知恵と行動力を持つ。ユングはトリックスターと名付けた存在で、日本神話や昔話でいう、スサノオやきっちょむさんもトリックスターに分類される。また作中では、ほしいものを何でも貪欲に食べてしまうキャラであり、千尋の貪欲な一面のシャドーともとらえることができるかな。

彼らという生きながられることができなかったもう一人の千尋たちと出会い、渡りをつけるのがこの作品の描いているところであり、これが自我の再構築なのです。

銭婆のところに行く列車の意味は?

広い海は無意識の世界を指します。通常は深くに潜るのですが、この作品では列車にのってどんどん郊外に行く様子が描かれています。途中にでてくるキャラたちも、おそらく千尋の元型なのでしょうが、存在がはっきりしないので、影のように描かれています。電車が下りがほとんどなのは、意識の深いレベルへはほとんどの情報が一方通行なのを意味しているのでしょうか?その奥底の住人が、分離したシャドーの明るさの部分というのは面白いですね。

なぜ最後に自分の両親を言いあてられたのか?

名前を取り戻すことができたのは、自我の再生がうまくいき、生きながらえなかったもう一人の自分たちと渡りをつけることができたからでしょう。両親を言い当てるシーンでは、興奮も躍動も緊張もなく、まるで1+1=2をこたえるかのように描かれています。これは自分のシャドー(湯婆婆)の部分との統合で、それを当たり前の自己として取り入れることができたからです。

ハクも自我再生プロセスの中だった。

ハクも名前を無くし、それを取り戻す途中のキャラとして描かれています。そして名前を取り返す中で、銭婆から盗むよう、湯婆婆から言われた印鑑にかけられていた呪いにより死にそうになります。自我の再構築には死を伴う苦しみがあるもので、このモチーフは「マトリックス」の中にも描かれていますね。

最後もきちんと川、地蔵、トンネルを通って意識の世界へ戻ってくる

無意識の世界とは混同されることなく、再び3つの境界のシンボルを通って、現実世界、自我が主体の世界に戻ってきます。無意識下にあるそれぞれの元型のとらえ方やイメージは大きく変わり、意識上にある千尋に影響を今後与えるでしょうが、それが目に見えることはありません。

こんな見方をすると、また別の角度でこの有名作品を楽しめると思います。


ほとんどの方は、すでにみられたのではないでしょうか?


ユングの元型論に興味がある方はこちら。


もっとわかりやすい本をご希望の方は、河合隼雄あたりからどうぞ。
コチラは神話の話ですが、元型について語っている点では同じです。

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